在宅と、救急と、

救命センターのICUで高度医療を行いながら、在宅往診で自宅看取りを行う専攻医の内省とつぶやき

どんな時も、救いたい命があって どうしても、救えない命がある ICUのベッドも、家の畳も 僕にとって、大切な空間のように思う。

あなたにとってのメンタリングとは?〜成長過程における立ち位置〜

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trekking at Yosemite 2013 卒業旅行

今回は友人3人で「同じテーマについて喋ってみよう」ということで、

自身の成長におけるメンタリングの立ち位置、についてです。

 

 メンタリングってなんだ、ということに関しては

二人が詳しくしっかり書いてくれているので、そちらをご覧ください。

 

・櫻井広子先生の記事

note.com

 ・深瀬龍先生の記事

yamagatageneral.hateblo.jp

 

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さて、いきなりですが、皆さんにとって「後期研修」という期間は、どのような時間(だった)でしょうか。

 

一般的にはこの後期研修を3〜4年積めば、なんらかの"専門医"資格を取得し、そして"一人前"となり、一人立ちしていきます。

 

が、職人的要素の強い医師という仕事が、たった5-6年で"達人"の域に到達するというのは、到底無理でした。僕の場合、一人前どころか、後期研修をおわってやっと、よちよちと伝い歩きが出来るようになった・・くらいの感覚でした。。苦笑

 

しかし、この感覚は皆さん、以外に遠からず・・なのではないでしょうか。

 

 

一方で、専攻医期間がおわると、いよいよ継続的に誰かに教えてもらうということはなくなります。 

自分で課題をみつけ、解決策を探り、成長へのアクセル(や、ブレーキ)を自分でコントロールしていかないといけなくなります。まだまだやらないといけないことは山積みだし、結局暗中模索が続きます。

でも、今はなんとか、やっていけています。

 

 

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 僕にとっての専攻医期間は「ずっと成長していくための振り返り、課題発見し、内省をし続ける・・そんなことが"一人でも継続的にやっていける"ためのトレーニング期間」であったと思っています。

 

そして、そのために必要なプロセスは、"省察"を日々繰り返す、ということでした。

 

この"省察"を援助するプロセスが、専攻医期間中に指導医の先生に継続的にしてもらったメンタリングだったなあと強く実感しています。

 

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自分の内面と対話を続ける省察は、なかなか一人でできるようになるものではありません。今までの医学教育では、なかなか獲得しづらかったプロセスだからです。

 

でも、だからこそ専攻医期間中は、積極的にメンタリングをうけました。

そしてこのメンタリングをうける日までに、

・今日は指導医に何を言おう

・僕って今なにに悩んでるんだっけ

・それってなんでなんだろう

と一人考えている時間自体が、成長につながっていきました。

 

つまり、メンタリングは、その1時間の中だけに価値があるわけではなく、その準備期間から価値あるもので、自分と向き合う時間を確保するための「リマインダー」のように作用しました。

 

 

専攻医がおわり、まだまだ成長過程をふんでいるところ・・。

実は、未だに月一回、継続的に専攻医時代の指導医から、メンタリングを続けてもらっています。(本当にありがたい・・・)

 

そうして自分と向き合い、成長を促す時間を定期的につくる

僕にとってのメンタリングは、リマインダー

と、中括りしておこうと思います。

 

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  次の世代のメンターでありながら、今もなおメンティであり、色々な関係性を相互的に作用しあっている。総合診療のつながりは、やっぱりおもしろいなあと思っています。

 

 

 

ちよばあの話

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ブータンの寺院で修行する少年たち@2011年

2年前、まだ専攻医の時に書いたものが、下書きのまま、固まって残っていた。

2年たって、専攻医が終わった今、僕はまた急性期病院で働いている。

 

それでも揺るぎない

後期研修を「診療所」で研鑽する、価値について

 

つたない言葉だけど、推敲させず、このまま載せときたい気分だったので、雑な文章のまま公開します。

 

「ちよばあ」との思い出。

 

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初めて僕がちよばあと会ったのは、診療所勤務が始まった医師4年目の、4月4日の事だった。89歳でANCA関連腎炎を発症され、免疫抑制剤(プレドニン10mg/日+プレディニン50mg/日)の内服をされていた。

ふくよかな身体と、優しい笑顔が印象的な方であった。

 

「どんなに辛くても、笑顔を絶やさないおばあだ」と聞いた。

 

そんなちよばあに、診療所の外来で初めてあった時の主訴は、3日前からの風邪。

ものすごいwheezeとholo insp. cracklesが聞こえていて、SpO2は85%。

 

会って5分で、救急搬送した

 

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肺炎・心不全増悪の加療をおえ、無事自宅に戻られたちよばあは、改めて診療所に勤務していた僕の外来でフォローする事になる。

 

ちよばあとの外来は、本当に楽しかった。

色々な話を聞かせて頂いた。

夫の妹が生来の知的障害があること、その方の介護をANCA関連腎炎を発症するまで行っていた事、夫がヘビースモーカーで大変な事、でも、大好きな事。

 

その全てが、ちよばあの柔和な笑顔に包まれて、

いつも外来は、少し押し気味だった。

(当時の僕は、診療所研修が始まったばかりで、まだ外来診療のスキル が足りないからだ、タイムマネジメントの改善をしなければ・・なんて考えたりもしていたようだけど、きっとそれは、スキルの問題ではない、と今にして思う。)

 

その後も何度か、気管支炎や心不全増悪での入退院を繰り返されるちよばあ。

その都度彼女は

「…病院には、行きとうないけどなあ。

 ・・・でも、先生にお任せします。」

と言っていた。

そしてその都度、僕は

「また元気になって、家に帰ってこれますから」と言い、送り出していた。

 

 

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 そうしてちよばあは、緩やかに認知機能とADLが低下されていった。

車椅子でしか外来に来られなくなり、訪問診療に切り替えた方がいいかという話がカンファレンスであがるようになった。内服も自己管理が難しくなり、息子さんに管理してもらうようになっていった。(少しずつ、自分でできていたことが、医療の手で、離れていった。)

 

しかしそれでも、彼女の笑顔は変わらず柔和で、僕たちの外来を、優しく包み込んでくれていた。

そして、外来はやっぱりいつも、押していた。

 

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 ちよばあとの外来の物語が、1年経とうとしたころ、

「喉が乾いた」と、ポータブルトイレの消臭液を一気飲みしてしまい(なんてこった)

救急搬送され、緊急入院された。

 

今日(=ブログを下書きした日、つまり2年前)、少し時間が出来たので、診療所をぬけ病院に訪問し、お見舞に伺った。

病室に行くと、病棟看護師さんにミトンの付け直しをされている最中だった。

両手ともにしっかりとミトンをされていくちよばあは、少ししょんぼりしていたけれど、僕をみつけるとすぐ

「ああ、先生、来てくれたんや〜!」と、気づいてくれた。

 

「やあ」と声をかけようとしたら、看護師さんは

「こんなお医者さんは、この病院にはいませんよ(笑)。・・お孫さん?」とおっしゃった。

 

ちよばあはすかさず「ちゃうよ、私の先生よ!」と言いはなつ。

看護師さんもすかさず「お孫さん?あ、ひ孫さん??」とやり返す・・。

 

言い出そうか迷ったけれど、すっかり認知症のレッテルを貼られてしまっている(まあ、認知症なんだけど)ちよばあの名誉をはらすため

「あ、彼女の診療所の主治医です…」とお伝えすると、

彼女はすかさず「ね?私の先生よ!」と勝ち誇った顔で、ニコニコしてくれた。

 

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診療所で医師をするようになって、「医者と患者」という関係の枠が、少しずつ変化しているような気がした。それは理論的になにが「いい」とかは言えないけれど、とても心地の良い変化のように感じていた。

(恐らくそれは、先日書いた「関係性の固定化、からの開放」が診療所では起きやすい状況にあり、あるいは、開放するための臨床的手法を家庭医療学という専門性が教えてくれたからだろう、ということに気付いたのは、もう少し後のことになる。)

 

CVが挿入され、ミトンをつけられている姿も、ちよばあと看護師のやりとりも、その後、診察する訳でもなくただなんとなくお話する時間も、何を話すこともなく病棟の窓の外に広がる景色を眺め続けることも。

その全てに、ちよばあの柔和な笑顔がくれた温かな関係性が内在された時間が刻まれていた

 

そしてそれは、急性期病院内で研修医をしていた時には、どれも見えていなかった角度からの風景だった。

 

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医師4年目で「診療所」にとびだし見えた世界は、とても広大で、優しく、「医師を目指した原点」を再発見するきっかけがたくさんあった

 

若年のうちから診療所で研修するというキャリアプランは、現状はまだまだマイノリティで、理解のない(何も知らない)諸先輩や同期から、「やめといた方がいい」と理由なき批判をうけることもあるだろう。


私自身、「医師4年目から診療所勤務をする家庭医療学のプログラムにいきます」というと「そんな早い学年から診療所になんか行ってどうするの?」と言われた。(「アホちゃう?」と罵られた事すらある。)

 

まあ、私自身、たしかに不安だった。

しかしその不安は

「急性期病院でがつがつ経験をつむ同期たちから置いていかれるんじゃないか」や

「もう病院は怖くなって戻ってこられなくなるんじゃないか」といった、

どれも根拠のない漠然とした不安だった。

(今、医師8年目になって、全然おいていかれていないし、急性期病院にもどってきて仕事ができている。しかも、大きな幅をもって。)

 

当時は「診療所なんて、もっと病院で色々経験してからでしょ。」と言われた言葉に、返す言葉を持ち合わせていなかった。ただ、医師4年目で1年間診療所での勤務を修了し感じた事は

「そんな早い学年から、病院という『狭く特殊な世界』に引きこもっちゃって、どうするの?」

ということだった。


もっと広い世界やドラマが、地域にはある。全人的な理解、って言葉にすると胡散臭くて()嫌いだけど、でもそれが医療なんだなあとしみじみ感じた。(そして、家庭医療学には、それを「あったかい話」だけで片付けない理論と実践がたくさん詰まっていた。)

 

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 消臭液の誤飲から退院されてから、ちよばあの診療はいよいよ訪問診療に切り替わった。退院初回は、軽いせん妄状態にはいっていて、私のことすら判別が難しいような状況になっておられた。

 

#認知機能のさらなる低下 s/o:せん妄

というプロブレムリストを、カルテに新たに追記した

 

その後、ちよばあの寝室にいくと、彼女と全く同じところに笑いじわが出来るおじいが、スパスパとタバコを吸っていた。部屋中に灰皿が設置され、いたるところに吸い殻が捨てられていた。

 

#夫がヘビースモーカー

とプロブレムリストを書きたそうとしたけれど、

その前にふと、気になったので、夫に

「それ、なんて銘柄のタバコですか?」と聞いてみた、

 

すると、夫が答えを言うよりもずいぶん早いスピードで

すかさずちよばあが

「セッター(※セブンスター)よっ」と答えてくれた。

 

夫はただ、笑うだけだった。

 

 

セブンスターの煙につつまれて、HOTの機械がしゅこしゅこと音をたてている。

そのいびつさが、なぜかとても美しく、

そのままにしておきたい、とすら思いながら、一呼吸おいて

 

#夫がヘビースモーカー→禁煙指導

とカルテに書き足した。

 

二人の目尻に浮かぶ笑いじわが、揃っている。

外来で包み込まれた柔和なちよばあの笑顔。

夫の分とまじわって、2倍のパワーで訪問診療を包み込んでいく。

 

そうして、彼女の物語の終焉は、また一歩近づいていった。

 

それは皆が理解していたし、

なにかを必死で「巻き戻ししよう」とする人は、誰もいなかった。

 

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「医師4年目から診療所勤務をする家庭医療学のプログラムにいきます」というと「そんな早い学年から診療所になんか行ってどうするの?」と言われた。 

 それにはすかさず、こう答えようと思う。

 

「そんな早い学年から、病院という『狭く特殊な世界』に引きこもっちゃって、どうするの?」

 と。

 

「場づくり」を考えるvol.1

 

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無料路上相談所(2010年くらい?)

大学生の頃、

「無料路上相談所」というのをやっていた

 

わざわざ終電で心斎橋に向かい

コンビニで段ボールをもらって

お茶とお菓子をたんまり買いこむ

 

ひっかけ橋のすぐそばで

朝まで無料路上相談所

「悩みあれば聞きます。なければ僕らの悩み、聞いてください」

と看板を出す

 

あとは始発まで

終電を逃した学生や、仕事終わりのホストにキャバ嬢

ライブ帰りのハイテンションガール

キャッチに疲れたお兄さんボーイに

ちょっとヤバそうな仕事をしている人

かれこれ10年くらい仕事をしていない人

外国人観光客まで、

色々な人とお話をした。

 

 

"なければ僕らの悩み、聞いてください。"

に惹かれたのか、

なにそれー!と

特に目的のない人たちが足をとめ

毎回まあまあの人がやってきて

それなりの話がうまれたりした。

 

医学部3年?4年?のときは、

ただの遊びと思ってやっていたけど、

今となっては少し、

自身のやっていきたい医療の原点になっているような気がする

 

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昨夜「ローカルな場づくりの教室(実践編)」に

ドキドキしながら、参加した。

("医療"以外のフィールドに飛び出す、一歩目)

school.greenz.jp

 

第一回は「場づくりをしたい、と思った自分と向き合う時間」

自身の原体験への振り返りや、想いの共有

コミュニティと場の違い、など

いろんなマインドセットをもらえた素晴らしい時間だった。

 

以下、メモの抜粋

場で大切だとおもうこと

関係性を固定化させず、余白をもたせること

これをせねば、こうでなければ

というものがないのが「場」

 

場はとても広い概念

日本独特の価値観が横たわっていて、英語化が難しい

場は、実在する人の存在すら必要としない可能性がある

葬儀やお盆、死者を想う、

といった対象となる人がそこにいなくとも場になりえる

 

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 空間や、そこに集うヒト、モノ、目的だけでは収まらない

そこにくるきっかけとなった(それぞれの)過去、記憶、感情、

それぞれの異なる文脈と文脈が交叉して、集まって、

つながってもいいし、はじけてもいいところ

それが"場"なのかもしれない

(と、現時点の小まとめをした)

 

そう考えると

沖縄で初期研修医をしていた時

ゲストハウスに入り浸り

「ゆんたく」の居心地の良さに溺れていたあの頃も

そういった場に広がる文脈や余白をたくさん感じられるところ

だったからなのだろう

 

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沖縄のゲストハウス「月光荘」(2013年)

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月光荘で、ゆんたく(2013年)

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 特に印象的だったのが

関係性を固定化させず、余白をもたせること

 というパンチライン

 

無料路上相談所が、なんとなく始めたけど

それなりに続いて、それなりの話で盛り上がれて

ときに20人以上の人たちでその時間を共有できたのは

 

なければ僕らの悩み聞いてください、と看板を出すことで

相談するヒト、うけるヒトという関係性の固定化を崩し、

相互性と余白を産み出していたからなのかな?

とか思ったり。

 

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 病院という箱のなか、

外枠から埋められたコミュニティの中での自由の少なさ

 

診察室という空間で

「医師」と「患者」という関係性の固定化

 

こういったものへの違和感が、

場づくりに興味を惹かせた原動力なのかもしれない。

 

場づくりの哲学と物語と題されたワーク

自分の中に浮かんだ3つのキーワードは

現代医療への違和感、"生"に向き合う、つながり

 
 

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 「医師という職業は、ヒトの不幸の上に成り立っている」

学生のころ、部室でギターを弾きながら

先輩がなんかよく分からんマイナーコードにのせて歌ってた一言が

結構自分の心に残っている。

当時は、否定する言葉は持ち合わせておらず

むしろ納得感をもって、医師という仕事の理解を促進させていた。

 

でもそれは、

「医師と患者」という関係性が固定化されているから

生まれるものじゃないか

 

相談する、される、そんな関係性ではなく

病気になったから来る、でもなく

そこにくるきっかけとなった(それぞれの)過去、記憶、感情、

それぞれの異なる文脈と文脈が交叉して、集まって、

つながってもいいし、はじけてもいいところ

そんな医療をやっていける診療所を作りたい。

 

その先にみたいのは、不幸の上に成り立つ関係性ではなく

すこしでも、はっぴいになれる

文化として成熟した医療。

 

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 5年後くらいに

「え、ここ診療所だったの?え、とくちゃんって、医者だったの!?」

そんな感じの診療所つくり。

 

追記:(藤本さんの言葉を丸々いただき。)

診察室は、コミュニティではないが、場に"なりえる"

基本的に「固定化された関係性」の中では場は発生しづらいが

意図的にそれをズラすという行為が重要

 

例えば

・医者が明らかに医者っぽくない格好をしている

・診察室に関係ない写真がいっぱい飾ってある

・医師や看護師の趣味のBGMが流れている

 

こういった、「一見不必要なことを言う、する」ということで、場が生まれる可能性が格段に上がり、豊さにつながるヒントになる。

 

 
 
 

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 今日はここまで

 

いい時間/EVISBEATS

youtu.be

 

 

 

 

 

交差点に佇む

姉のまいと妹のゆい(ともに仮名)は、

ひとつ上の先輩と、ひとつ下の後輩だった。

 

親友だった同級生のたくぴー(これは実名)の姉ちゃんが

まい(姉)と親友で、

たくぴーとたくぴーの姉ちゃんとまい(姉)とで廊下で話すことが多く、

そんなこんなでゆい(妹)とも話す機会も増えて、

高校生らしい文脈のなかで、それっぽいことをして過ごしていた。

それはもう、15年以上前のことになる。

 

そして高校卒業後、彼女らと交わることは

あっというまになくなった。

(よくある、高校生の話だろう。)

 

 

 

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3ヶ月ほど前から、96才のおばあ(仮名:よしこさん)の入院主治医をしている。

今まで大きな病気をしたことがなく、

95年間入院をしたことも定期薬も飲んだことのない方だった。

 

緩やかに認知機能やADLが低下されたよしこさんは、2年ほど前から「2週間ショートステイ施設で過ごし、土日を自宅で少し過ごし、また2週間ショートステイ施設で過ごす」というライフサイクルに入っていた。

それでも2週に一度週末に帰宅した時は、家族が集い、ときに孫が(ある日からはひ孫も一緒に)やってきて、同じように90代になる近所のおばあが会いにきて、おやつを食べ、その一部の時間を賑やかに過ごされていた。

(きっと彼女は)その週末を楽しみに、緩やかに閉ざされていく自らの人生と向き合っておられたのだろうと思う。

 

しかし、コロナ禍に入り、そんな土日の自宅一時帰宅生活は、禁止された。(もちろん、施設内への家族の面会も、同じように。)

孫にもひ孫にも会えず、道をはさんで向かいに住む同世代のおばあと会うこともなく、施設の中だけで過ごし続ける生活は、もはや彼女にとって"生活"ではなかったのかもしれない。徐々に食事摂取量はおち、発語も認められなくなり、そして3ヶ月前、腎盂腎炎を発症され、当院に入院された。

 

これで亡くなっていたら、原死因は腎盂腎炎なのだろうか?老衰なのだろうか?それとも、コロナ?

皮肉っぽいことを考えながら、彼女の腎盂腎炎はみるみる回復された。

 

腎盂腎炎は、99%抗生剤が効いたのだけど、

彼女の食事摂取量を立て直したのは、99%「家族の面会」だったように思う。

 

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 よしこさんの苗字を救急外来でみて、搬送先の地名をみた途端、

おもわず付き添いされていた長男夫婦に

「あれ、まいとゆいのおばあちゃん?」

と咄嗟に言葉がでてきたのは、

医者としてのそれではなく、"私の人生"のなかででてきた言葉だった。

 

そして長男夫婦がみせた安堵の笑顔も、

医学の文脈にはない、医療のなかで語られるものであった

(と、解釈している)

 

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 腎盂腎炎は改善され、無事(なのかどうかは分からないけれど、施設へ)退院されたよしこさん。

 

その1ヶ月後に、今度は間質性肺炎の急性増悪の疑いで入院された。

NPPVが必要なほど呼吸状態は悪かったが、これも見事に復活されていく。

(95歳までノードラッグ・ノー入院であった底力は、やっぱり半端ない。)

 

 

約1ヶ月半の入院生活を終え、先週末ご自宅に退院されることになった。

この自宅退院も、あくまで一時帰宅。

ずっと家で過ごすことは、色んな事情が噛み合わないと難しい。

 

それでも、土日の2日間だけでも、ご自宅で過ごしてもらった。

ほんのひとときだけでも、よしこさんに(そしてよしこさんの家族に)とって残された"生活"を噛み締めてもらうために。

週明けからはまた、施設へ入所する手筈が整えられていた。

 

ひ孫も、むかいに住む同世代のおばあの家族も、会いにきてくれた。

(ただし、向かいに住むおばあ自体は、コロナ禍に入り会えなくなっていた間に、亡くなられていた、と聞いた。)

 

そうして過ごした2日間は、よしこさんにとってあまりに刺激的だったのだろう。笑顔全開で、いつからあげていなかったか分からない(少なくともコロナ禍以降はじめての)ばんざい!をして、両手いっぱい喜びを表現し、おやつまで食べたそうだ。

 

ゆいが会いにいくと、久しく聞くことのなかった声も、だしていたという。

 

 

はりきりすぎたのか、施設入所予定であった週明けの月曜日、朝からよしこさんは傾眠で、全く食事を食べなかった。

ウトウト・・ウトウト・・するよしこさん。前日までの元気であった姿とは全く様子が違うため、心配になった家族はたまらなくなり、また救急搬送され、当院へやってきた。

 

たった2日の退院で、出戻り救急搬送。

救急医としての専攻医時代であれば、少し陰性感情がわいていたかもしれないこのシーンで、素直に

「土日、少し楽しみすぎちゃいましたかね。一旦病院でゆっくりして体調整えて、施設に入所する段取りを、また整えなおしましょう」

と言えたことは、家庭医療学を学んできた背景に裏打ちされた、私が救急医としてやっていきたい姿に近づけた瞬間だな、と(少し)思う。

 

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結果、よしこさんは昼すぎからは覚醒良好になっていき、夕食からはいつも通り食事を召し上がられ、(NCSEの可能性は残るものの)、順調に体調を取り戻し、明日施設へ入所されていく。

 

きっと、人生を、生活を、楽しみすぎちゃっただけなのだろうと思う。

 

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 よしこさんの向かいに住んでいた、今年亡くなられたとねさん(仮名)は、2年前まで私が約3年間、診療所で外来主治医をしていた患者さんだった。繰り返す肺炎や心不全増悪のたびに、病院で入院加療も行い、その都度その都度「もう年内には亡くなるかもしれません」と言い続けてきたとねさん。診療所退職にともない、別の医師に引き継いで、結局あれから2年間、とねさんはご自宅で、ゆるやかに過ごしておられたことを知った。

 

「『あの先生なら、あたりよ!私のお母さんも、本当に本当によく看てくれた』って、週末とねさんの家族が家にきてくれたとき、話していたんです。ゆいも、会いにきてくれました。先生が主治医で本当によかった」

そんなことを救急外来で語ってくれたよしこさんの長男夫婦。

 

からしたら、とても大切な「現病歴」だった。

 

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15年間まったく会うことのなかった(記憶のなかでは高校生のままの)ゆいは、2児の母となり、よしこさんの孫とひ孫となり、現れて。

とねさんは、向かいに住む隣人として、物語に現れた。

 

よしこさんの96年間の人生のなかで、たった3ヶ月しか関わりのない、一部の景色のなかに、色々な人との出会いが交差して、自分の医療のなかに溶けていく。

 

 

 

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医療という信号機みたいな存在として、

誰かの交差点に佇みながら、

一方で、自らの人生を進めている。

 

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 専攻医は、結構前に終わっていて

でも、またブログを書こうかな、なんて思えた

そんなエピソードでした。

 

 

やさしいままで/never young beach

youtu.be

 

 

生活の柄/高田渡

  • 医者になって
    結構な年月が経った

    今ではだいたいの事が
    自分1人で出来て
    それっぽい事を研修医に伝え
    それなりの技術をもって
    患者(あるいはその家族)の
    ナラティブの中で存在する
    「良き登場人物」に
    なれるようになった

    (と、思っている。)


    ☆☆☆☆☆☆
    よく病棟の看護師から
    『病状説明、本当に上手ですね。』
    と、言われる。


    詩の集い、というネット上のサークルで
  • 10年ものあいだ
    言葉で遊んできた経験が
    生きているのかな、とも思う。

    そんなこともないか

  • ☆☆☆☆☆☆
    さて、
    ありきたりな話になるけれど
    時計回りにしか生きられない
    現代の中で
    過去の生活、ことば、匂い、
    あの時伝えられなかった、感情

    そういったものを
    頼りにして生きていると
    どうしてもちぐはぐになってしまう
    事がある

    それが心地よく感じる夜は
    秋は夜長に、、となり
    そうでなければ、
    とても肌寒く、かじかんでいくのだと思う


    ☆☆☆☆☆
    『病状説明、上手ですね。』
    という
    言葉の裏を
    探ってみる。

    結局僕は
    なにかにつけて
    『そうじゃなかった時』を恐れ
    『ああ言っておけば…』という後悔を
    とても多く積み上げてきた
    そんな人生なのだと思う。


    だから
    時計とは反対向きになぞられていく
    少しおかしな感覚の中に
    患者(と、その家族)を引き込み
    『物語』としての医療を
    より濃く、より強く、より悲しく
    そしてより充実した(ように見せかけて)
    提供しているのだろう

    (と、僕は思っている。)


    ☆☆☆☆☆
    ここまで、
    殴り書きのように書いて

    疲れたから
    今日はここまでにする


    ☆☆☆☆☆☆
    気づけばまた、時計回り
    針が30分ほど進み
    僕の頭をこついて
  • 逃げていく
  • 今日の一曲「生活の柄/高田渡
  • 結局、歩き疲れては草に埋もれて
  • ところかまわず寝たいのだろう と思う

「二人主治医制」というかたち 〜第20会日本在宅医学会〜

昨日から日本在宅医学会に参加中。

そこで「二人主治医制」についてのシンポジウムを拝聴した。

 

治癒モデルと生活モデル

在宅医と専門医の違い

病院と地域の違い

 

などなど…

考えを整理する上でためになる話が多かった。

 

けれど、

誤解を恐れず言うと、

違和感しか感じなかった。

 

なにより座長が放ったこの一言が、一番なんとも言えない気持ちになった。

「専門の先生が、生活や地域を考えるのは、無理がありますから」

 

 

・・・本当にそうだろうか。

あるいは今後、より加速度的に「治療は専門医」「生活を在宅医(総合診療医)」が支えるという分担を強化していく必要があるのだろうか。

 

僕は、違うと思う。

 

最近感じている懸念のひとつにもつながるけれど、総合診療医が本人の気持ちや生活、地域を意識した「人を診る医療」を実践すればするほど、各臓器別専門医は、人を診るという「マインド」を総合診療医に委譲してしまい、どんどんその考えが診療の中から薄れていってしまう傾向にあるのではないか、と感じている。(もちろん、そうじゃない人もいるけれど。)


でも、そこって、わざわざ二人主治医制にして、わけた方がいいことなんだろうか??

 

一人の患者を支えるにおいて「疾病 disease」と「病い illness」をわけて考える必要が

、果たしてあるのだろうか??

 

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LIFE・・・患者さんを支えるにあたってとても大切な概念だと思う。

LIFEという言葉には「生命、生活、人生」そういった全てが包括されている。

 

僕は、患者さんやそれを取り巻く家族の「LIFE」を支える医療を提供していきたい。

 

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臨床という言葉が「クリニコス(=病に伏した床で、話を聞くこと)」を語源としている以上、どの臓器別専門に進んだ者であっても、臨床医であれば診療の基本は「話を聴く」というスタンスを大事にすべきだと思う。

 

そして、そこで語られる「話」には、疾病だけでなくその疾病に罹患した事で変わってしまった生活や、人生、価値観、物語・・そういった全てが含まれている(はずだ)。

 

その「話」を聴く人は、臨床医全てがもつべきマインドだと思う。

 

やっぱり僕は、

臓器別専門医であっても

その「人となり」を理解して治療を統合する必要がある

と思っている。

 

 

そういった意味で「治療」と「病い体験」を切り離して考える(ことに加担してしまうかもしれない)「専門医と在宅医の二人主治医制」というのには、なんとなく反対だなあと感じた。

 

 

 

色んな意見がある事だと思う。

けど(大学病院でマスを救うための研究をされている先生は別として)

目の前の個人を対象とした「臨床医としての基本のマインド」は

スペシャリストもジェネラリストも、わけないほうがいいんじゃないだろうか。

 

 

 

皆さんは、どう思います???

 

 

 

オススメPV. No.1「愛に気をつけてね/ドレスコーズ」

学生の頃はまだ毛皮のマリーズとして

ミナミホイールに出て、大阪のHEP前でチラシ配ってはった

 

 

冴えない顔したドラマーが3分27秒くらいから

思わず走っちゃうあたりが特に好き。

 

 

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