在宅と、救急と、

救命センターのICUで高度医療を行いながら、在宅往診で自宅看取りを行う専攻医の内省とつぶやき

どんな時も、救いたい命があって どうしても、救えない命がある ICUのベッドも、家の畳も 僕にとって、大切な空間のように思う。

交差点に佇む

姉のまいと妹のゆい(ともに仮名)は、

ひとつ上の先輩と、ひとつ下の後輩だった。

 

親友だった同級生のたくぴー(これは実名)の姉ちゃんが

まい(姉)と親友で、

たくぴーとたくぴーの姉ちゃんとまい(姉)とで廊下で話すことが多く、

そんなこんなでゆい(妹)とも話す機会も増えて、

高校生らしい文脈のなかで、それっぽいことをして過ごしていた。

それはもう、15年以上前のことになる。

 

そして高校卒業後、彼女らと交わることは

あっというまになくなった。

(よくある、高校生の話だろう。)

 

 

 

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3ヶ月ほど前から、96才のおばあ(仮名:よしこさん)の入院主治医をしている。

今まで大きな病気をしたことがなく、

95年間入院をしたことも定期薬も飲んだことのない方だった。

 

緩やかに認知機能やADLが低下されたよしこさんは、2年ほど前から「2週間ショートステイ施設で過ごし、土日を自宅で少し過ごし、また2週間ショートステイ施設で過ごす」というライフサイクルに入っていた。

それでも2週に一度週末に帰宅した時は、家族が集い、ときに孫が(ある日からはひ孫も一緒に)やってきて、同じように90代になる近所のおばあが会いにきて、おやつを食べ、その一部の時間を賑やかに過ごされていた。

(きっと彼女は)その週末を楽しみに、緩やかに閉ざされていく自らの人生と向き合っておられたのだろうと思う。

 

しかし、コロナ禍に入り、そんな土日の自宅一時帰宅生活は、禁止された。(もちろん、施設内への家族の面会も、同じように。)

孫にもひ孫にも会えず、道をはさんで向かいに住む同世代のおばあと会うこともなく、施設の中だけで過ごし続ける生活は、もはや彼女にとって"生活"ではなかったのかもしれない。徐々に食事摂取量はおち、発語も認められなくなり、そして3ヶ月前、腎盂腎炎を発症され、当院に入院された。

 

これで亡くなっていたら、原死因は腎盂腎炎なのだろうか?老衰なのだろうか?それとも、コロナ?

皮肉っぽいことを考えながら、彼女の腎盂腎炎はみるみる回復された。

 

腎盂腎炎は、99%抗生剤が効いたのだけど、

彼女の食事摂取量を立て直したのは、99%「家族の面会」だったように思う。

 

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 よしこさんの苗字を救急外来でみて、搬送先の地名をみた途端、

おもわず付き添いされていた長男夫婦に

「あれ、まいとゆいのおばあちゃん?」

と咄嗟に言葉がでてきたのは、

医者としてのそれではなく、"私の人生"のなかででてきた言葉だった。

 

そして長男夫婦がみせた安堵の笑顔も、

医学の文脈にはない、医療のなかで語られるものであった

(と、解釈している)

 

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 腎盂腎炎は改善され、無事(なのかどうかは分からないけれど、施設へ)退院されたよしこさん。

 

その1ヶ月後に、今度は間質性肺炎の急性増悪の疑いで入院された。

NPPVが必要なほど呼吸状態は悪かったが、これも見事に復活されていく。

(95歳までノードラッグ・ノー入院であった底力は、やっぱり半端ない。)

 

 

約1ヶ月半の入院生活を終え、先週末ご自宅に退院されることになった。

この自宅退院も、あくまで一時帰宅。

ずっと家で過ごすことは、色んな事情が噛み合わないと難しい。

 

それでも、土日の2日間だけでも、ご自宅で過ごしてもらった。

ほんのひとときだけでも、よしこさんに(そしてよしこさんの家族に)とって残された"生活"を噛み締めてもらうために。

週明けからはまた、施設へ入所する手筈が整えられていた。

 

ひ孫も、むかいに住む同世代のおばあの家族も、会いにきてくれた。

(ただし、向かいに住むおばあ自体は、コロナ禍に入り会えなくなっていた間に、亡くなられていた、と聞いた。)

 

そうして過ごした2日間は、よしこさんにとってあまりに刺激的だったのだろう。笑顔全開で、いつからあげていなかったか分からない(少なくともコロナ禍以降はじめての)ばんざい!をして、両手いっぱい喜びを表現し、おやつまで食べたそうだ。

 

ゆいが会いにいくと、久しく聞くことのなかった声も、だしていたという。

 

 

はりきりすぎたのか、施設入所予定であった週明けの月曜日、朝からよしこさんは傾眠で、全く食事を食べなかった。

ウトウト・・ウトウト・・するよしこさん。前日までの元気であった姿とは全く様子が違うため、心配になった家族はたまらなくなり、また救急搬送され、当院へやってきた。

 

たった2日の退院で、出戻り救急搬送。

救急医としての専攻医時代であれば、少し陰性感情がわいていたかもしれないこのシーンで、素直に

「土日、少し楽しみすぎちゃいましたかね。一旦病院でゆっくりして体調整えて、施設に入所する段取りを、また整えなおしましょう」

と言えたことは、家庭医療学を学んできた背景に裏打ちされた、私が救急医としてやっていきたい姿に近づけた瞬間だな、と(少し)思う。

 

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結果、よしこさんは昼すぎからは覚醒良好になっていき、夕食からはいつも通り食事を召し上がられ、(NCSEの可能性は残るものの)、順調に体調を取り戻し、明日施設へ入所されていく。

 

きっと、人生を、生活を、楽しみすぎちゃっただけなのだろうと思う。

 

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 よしこさんの向かいに住んでいた、今年亡くなられたとねさん(仮名)は、2年前まで私が約3年間、診療所で外来主治医をしていた患者さんだった。繰り返す肺炎や心不全増悪のたびに、病院で入院加療も行い、その都度その都度「もう年内には亡くなるかもしれません」と言い続けてきたとねさん。診療所退職にともない、別の医師に引き継いで、結局あれから2年間、とねさんはご自宅で、ゆるやかに過ごしておられたことを知った。

 

「『あの先生なら、あたりよ!私のお母さんも、本当に本当によく看てくれた』って、週末とねさんの家族が家にきてくれたとき、話していたんです。ゆいも、会いにきてくれました。先生が主治医で本当によかった」

そんなことを救急外来で語ってくれたよしこさんの長男夫婦。

 

からしたら、とても大切な「現病歴」だった。

 

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15年間まったく会うことのなかった(記憶のなかでは高校生のままの)ゆいは、2児の母となり、よしこさんの孫とひ孫となり、現れて。

とねさんは、向かいに住む隣人として、物語に現れた。

 

よしこさんの96年間の人生のなかで、たった3ヶ月しか関わりのない、一部の景色のなかに、色々な人との出会いが交差して、自分の医療のなかに溶けていく。

 

 

 

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医療という信号機みたいな存在として、

誰かの交差点に佇みながら、

一方で、自らの人生を進めている。

 

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 専攻医は、結構前に終わっていて

でも、またブログを書こうかな、なんて思えた

そんなエピソードでした。

 

 

やさしいままで/never young beach

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