在宅と、救急と、

救命センターのICUで高度医療を行いながら、在宅往診で自宅看取りを行う専攻医の内省とつぶやき

どんな時も、救いたい命があって どうしても、救えない命がある ICUのベッドも、家の畳も 僕にとって、大切な空間のように思う。

死すべき定め

医学部に入学して割とすぐ、祖父は肺がんで亡くなった。

おとんに「肺がんだ」と病名を宣告され、おとんに余命を言い渡され、おとんに「わしは治療はせん」と言い放ち、病院に入院することもなく。

 

自分で、自分が入る墓を買いに行き、自分で、自分が死んだ後の法名をもらいに寺へ行き、ちょろちょろと好きな酒を飲み、なくなるその日の夜まで、自分の用は自分でたしていた(らしい)

 

そして祖父は、そのまま自宅で亡くなり、父が死亡を宣告した。

(死の3徴を確認したかどうかまでは、知らない。)

 

 

 

そして、

医者になってすぐ、大学の部活の後輩が、亡くなった。

部室の天窓を突き破り、地面に落ちたと聞いた。

一緒にバンドもやって、ついこの間まで飲み会で騒いでいた人の死は、いまいち想像がつかなかった。

当時は、沖縄という物理的距離の影響のせいにしていたけれど、きっとそういうことではないんだな、と今にして思う。

 

 

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毎日のように人が死んでいく。

別に僕が頑張ろうが頑張なかろうが、

関係がないスピードで

 

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そして先日、

一緒にフジロックに行っていた友人の奥さんが、

血栓性血小板減少性紫斑病(TTP)という劇症疾患を発症し亡くなった

という事を知った。

 

最後に会ったのは、五年前のフジロック。確か、ヘブンとオレンジ(という名の会場)を行き来する山道で乾杯をしたなあ、と思う。

そんな二人が結婚し「娘が出来た」と知った時は、勝手にフジロックで家族みんなで集まって、僕らはビール、子たちはオレンジジュースで乾杯するんだろうな、とか、色んな事を妄想していた。

 

もちろんその時、彼女の人生がこのような物語を語りながら終焉を迎えるなんて事は想像もしていなかった。(恐らく、彼も、彼女も)

 

今彼は、二歳の娘を一人で育て、薬剤師として、別の誰かの命を救っている。

 

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人は、命の儚さがプライミングされたとき(死を、覚悟した時)

誰かと「する」よりも「いる」方に

「未来」よりも「現在」に重きを置こうとする。

 

そして人が自分の時間をどう使おうとするかは

自分に与えられた時間がどれくらいあると認識するかによって影響を受ける

 

スタンフォード大学の心理学者であるローラ・カーステンセンは

『社会情動的選択理論』というなんともいかめしい名前をつけ

そしてこれを実証した。

 

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今日も自分は、あるおじいの家族に、こんな事を言う。

 

「よく頑張ってくれはりました。」

「でももう、お看取りかもしれません。」

 

「きつくないように、少しでも幸せになるように、側にいさせて下さい。」

 

 

これ以上の医学的加療を行っていく事の結末を

ある程度想像できるからこそ、僕たち医師が率先して

『ある種の線』をひいてあげた方がいいこともあるんじゃないだろうか。

そう思いながら。

 

しかし一方で、僕はそのおじいの「主治医」でしかなく、週単位・月単位でしか交わらない交差点のひとつに過ぎない。その後の人生の物語をつなぐのは、あるいはこのおじいの死をきっかけに紡がれていく人生の先に立つのは、(当然)僕ではなく残された家族だ。

 

そこを見誤らないようにしながら僕は「僕という登場人物像」を保ちながら、患者とその家族の側にいる。(いようとしている。)

 

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毎日のように人が死んでいく。

別に僕が頑張ろうが頑張なかろうが、

関係がないスピードで

 

一方で、

誰かと「する」よりも「いる」方に重きをもつ人々が

これも毎日のように、僕のもとに運ばれてくる。

 

結局、結構な勢いで、頑張りたくなる。

 

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祖父の死や、後輩の死

友人の妻の死と、残された2歳の娘

お看取りにしましょうと言い、旅立っていかれたあのおじい

 

色々な経験の中で、

自分なりの死すべき定めを探っている。

 

少なくともまだ、

自分のいるべき場所はここじゃないんだろうな、と思う

 

 

まだまだ頑張りまっせ、というはなし。

 

 

誰が”それ”を決めるのか

今日のレジデントデイ・症例カンファレンスは

高齢認知症患者。家族は代理意思決定能力の薄弱な遠方高齢な妹と、同居だが知的障害のある息子しかいない。こんな本人・家庭環境の中で、意思決定は誰が決めるのか?」(それは、医者が決めていいことなのか?)

というテーマだった。

 

また難しい事に(かなりざっくばらんな情報だが)ゆるやかな老衰の経過ではなく、急な発熱・ショックバイタルで、1ヶ月前の入院の時と同じ状況・・・

「恐らく尿路感染症による敗血症。病院で治療したら治りそうだけど、本人は家がいいって言っている。しかし、認知症があり状況の把握は(恐らく)されていない。息子は知的障害がある。どうやらお金の事を心配されている。…搬送する?しない?」という内容だった。

 

不確実性こそあれ、不可逆な状態ではなく恐らく”可逆性のある状態”での、意思決定。

ましてや敗血症を疑っているのだから、時間的余裕もない。

 

担当した先生(=症例提示者)は、往診先の自宅に着くその瞬間まで「いやこれはすぐ搬送だろう…」と思いながら自宅に向かった、と言っていた。

 

しかし家に着き、患者さん本人の顔を見たその瞬間"不搬送"が頭をよぎり

そして、他職種を交えた話し合いの中で

「家にいておきましょう。」という結論に至ったのだそうだ。

 

 

そして彼はその数日後、

自宅の中で、先立たれた妻の下に旅立っていかれた。

 

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 自らが「救急医」として働いている時、目の前に現れた患者さんを治療するかしないか、この判断に「どこまで?」という選択肢の中で迷う事はあっても"押しつぶされそうな感情"がのしかかってくる事は、少ない。

 救急外来で、胸痛を主訴に来院された方の心電図ST-Tが上がっている、本人は家に帰りたいと言っている。「ほなじゃあ、帰宅で。」…なんていう選択肢は、ほぼほぼありえず、カテーテル室へそそくさと(90分以内に)運ばれていくだろう。

 

 明らかに老衰の経過なのに、なんとなく救急外来に放り込んでくるかかりつけ医へいらだちを感じる事はある。心肺停止患者の家族の困惑された表情に同情を覚える事もある。「やめないで」と泣き崩れる中学生の娘に、胸が傷まないはずはない。

 しかし、そういった意味で感情が浮足だつ事はあっても、状況が整理できない時にとる選択肢は「分かるまで、治療をする。」という事が多く、そしてそれは、ある意味で(僕たち医療者にとっては)圧倒的に楽だ。

 「どこまでするのだろう」という感情こそ芽生えても、それは「自分ではない誰かが(それは大概にして、家族が)決めていく事だ」という感覚が、少なくとも出会って間もないその瞬間にはある、と思う。なぜなら僕は、その人の事を何も知らないのだから。

 

 あるいは「分からなければ、治療をする」というコンセンサスが医療全体にはあって、それが支えになる事もある。(その支えというのも、治療を受けている患者本人ではなく、僕たち医療者側への支え、なのかもしれないけれど。)

 

 

 しかし「家庭医」として、救急外来に到着する前の患者の意思決定をする場合、例えば胸痛を訴えている、あるいは発熱をしているといった、この目の前のおじいを病院に搬送するかどうかという判断は、救急医のそれとは、違う。

 

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 代理意思決定の原則は、代理意思決定者がどうして欲しいかではなく「本人だったら、どういった選択をとっていたか。それを推し測ること。」だ。

つまり、本人の人となりをより知っている人が、代理意思決定者となりうる。

 

 本人の事前意思がはっきり残っている時、あるいは家族が代理意思決定者としてしっかり機能している時、そういう時に悩むことはない。(僕たちの出番は、ほとんどないと言ってもいい。)

 

 しかし、今回の症例のように、すでに本人は認知症、代理意思決定者も親族内にいない、などといった時、僕たち医療者の苦悩が始まる。

 それは、家庭医は医師でありながら「代理意思決定者になりうる」状況におとしこまれていくからではないか、と、今日のカンファレンスを通じて感じた。

 

 あくまで医師と患者だ。プロフェッショナリズムをもって(一定線を引き)医師患者関係を築いている。それでも、人生をなぞる作業をする(しがちな)家庭医は、そのおじいの「人となり」を知った人として、物語の中に登場してしまう。(特に僕は、そういう傾向が強いと思う。)

 

 それは「医師と患者」という関係でありながら、やっぱり人と人、であって、そのおじいの顔を見ると、外来に通院されていた時の顔・どうでもいい会話・家庭環境や言葉尻に含まれた想い・妻を家で看取った時の表情……など、そういった諸々の多くを思い出してしまうからで、そしてそうやった諸々を思い出している時、僕とそのおじいはやっぱり、医師と患者という「だけ」の関係ではなくなってしまっているのだろうなと思う。

 

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 医者だけど、代理意思決定者になりうるほどある程度その人の事を知っていて(この人だったら、こう言うだろうなという事がある程度推し量れて)、でも医者で、頭のどこかで「カルフォルニアの親戚」が急に現れて、搬送しなかった自分を訴えてくるんではなかろうか、とビクビクしたりもして、でも目の前のおじいは「このまま看取ってあげた方がいいのではないか」と感じ…

 

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他にも色々、そもそも「家族が決める」事の是非や、どこまでを可逆性の治療ととり、どこからが延命ととるか、など、、、、臨床倫理の分野は、答えがなく、いつも考えがずぶずぶしていく。

 

 

そんな事を考えていると、だいぶ夜も遅くなってきた。

結局今はまだ、なにもまとまらない。

けど、このずぶずぶしている状態のまま残しておくのも、それはそれでいいのだろうと思う。

 

またいつか、まとまればいい。

 

 

 

 

 

 

【MKSAP17】Treat vancomycin-intermesiate MRSA bacteremia.

【Infection Item 4 - 問題 - 】

 42歳女性。2日前からの発熱・悪寒、及び左膝下周囲の皮膚の紅斑と疼痛、腫脹を主訴に入院された。彼女は入院5日前に転落外傷をおっており、腫脹している同部位に擦過傷をおっている。

 入院同日、エンピリックにバンコマイシンの投与が開始されている。既往歴に2型糖尿病があるが食事療法のみで内服はされていない。その他も含め内服薬はない。

 

・身体所見

 BT 38.7℃  BP 112/74  HR 110  RR 20 

 肺音は清で心音に雑音を認めない

 左膝下の皮膚:

  紅斑と緊満した浮腫、びまん性の疼痛を認めるが、リンパ管炎を疑う所見はない

 

・血液生化学所見

 WBC数 14500/μL

 血清のVCMのトラフ値: 17μg/dL

 入院時血液培養検査:MRSAが陽性 MIC:4μg/mL

 

【問題】

本症例の抗生剤の選択で、最も適切なものはどれ?

 A.リファンピシンを加える

 B.現在のバンコマイシンを同等量で継続する

 C.バンコマイシンを増量する

 D.ダプトマイシンに変更する

 

 

 

 【解答D.ダプトマイシンに変更

【解説】

  本症例においてはバンコマイシンを中止しダプトマイシンなど他の抗MRSA薬に切り替えるべきである。

 バンコマイシンMRSAが起因菌として想定されるような皮膚、及び軟部組織感染症の患者に投与するエンピリックな治療薬の第一選択薬として使用しやすい薬剤ではあるが、他の抗MRSA薬と比較して、その殺菌活性は弱くMRSAによる菌血症や感染性心内膜炎を治療する際には、効果が弱いと言われている。そこで、バンコマイシンのMIC(最小発育阻止濃度)が、治療選択をする上で有効な指標となる。

 分離された菌株に対するバンコマイシンMICが2μg/mL以下で臨床的に改善傾向にある場合はバンコマイシンを継続し、改善傾向にないようであれば他の抗MRSA薬にスイッチしていくべきである。

 一方で、MICが2μg/mL以上の場合、バンコマイシンは菌血症の治療には推奨されない。それ故、本患者に現行量でバンコマイシンを継続するという方針は適切ではない。(ダプトマイシンを使用する場合、もちろんダプトマイシンのMICも検証すべき。)

 

 バンコマイシンに対するMICが2μg/mL以下で、MRSA菌血症に対してバンコマイシンによる治療が適切だと思われる患者(治療反応性も良好な患者)において、バンコマイシン血清トラフ濃度の目標値は15-20μg/mLである。本患者のようにバンコマイシンのトラフ値がこの値内にある場合、バンコマイシンの投与量を増量する事はトラフ値を20μg/mL以上にしてしまう危険性があり、利益よりも有害事象をおこすリスクの方が上昇する。さらに、本患者のMRSAのMICは2μg/mLを超えており、現行量でのバンコマイシンを継続する事も推奨されない。

 バンコマイシンリファンピシンを追加しても、臨床的なアウトカムは改善しない

 

 【KEY POINT】

バンコマイシンに対するMICが2μg/mLを超えるMRSA感染症の治療に対しては、バンコマイシンよりもダプトマイシンの方がより良い治療選択。

 

 【補足メモ】

<まず、感想>

バンコマイシンのMICに関しては(なんとなく耳学問で)1μg/mLをカットオフとしていたけど、2なんだ…と反省。やっぱり耳学問はよくないですね(しかし、1を超えたらきつい気がする…(個人的感想))

 

MRSA感染症に対するリファンピシンについて>

むしろこっちの解釈(MRSA治療にリファンピシン意味ない)の方が重要そう。

まず、選択肢にリファンピシンがある理由…

 米国感染症学会のガイドラインは「ブドウ球菌による人工関節感染の内科的治療にはβラクタム系抗菌薬もしくはバンコマイシンのいずれかとリファンピシンの併用を推奨1) している。……が、そもそもこの推奨の根拠2) 事態が不十分であり、専門家の間でも意見が割れているところ。(対象患者が33人とごく少数だったり、ベースの抗菌薬がなぜかCPFXだったり、そもそもの対象患者が術後早期感染で、遅発性が含まれていなかったりetc...)

 

 しかもこれは、人工関節におけるMRSA感染、であって、MRSA菌血症に対する治療の一般論ではない

 

で、結局リファンピシンどうなのか、という判断の根拠として…

つい先日ARREST studyというDB-RCTの結果がLANCETで出た。3)

 

結論としては

黄色ブドウ球菌菌血症で標準治療にリファンピシンを併用しても全死亡を含め有益性なし』

 

…ただ、このSTUDYは黄色ブドウ球菌感染症、であって、MRSAに絞った研究ではない点である事も注意が必要。(MRSAであった患者は、全体の6%のみ

 

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 個人的経験でいくと、本年度5例の化膿性脊椎炎・腸腰筋膿瘍を経験し、うち3例がMRSAであった。(この地域は、なぜか深部膿瘍が多い…。いい経験にはなったが、これはこれで、原因を究明しなければ、と感じている。)

 そして幸い、本年度は治療失敗例はおらず、全員外来復帰できた事はちょっとした誇りでもある。(療養転院でもなく、外来復帰という所が嬉しい。)

 

 ただ、型通りVCMで押し切れた患者は0で、ダプトマイシンとリネゾリドの併用といった力技でおしきった症例もある。 (一応根拠として、2017年のダプトマイシンのReviw4)に、単独ではMRSAバイオフィルムに対し殺菌作用を持たないが、リネゾリドと併用することで殺菌効果が著しく上昇 って書いてあったし…。)

 さらに内服切替時に、リネゾリド+RFP→MINO+RFP→MINO単剤と、ローテーションしてみたり。 (これには、なんの根拠もない。)

 

結局、MRSAの治療は、難しい。

 

1) Douglas R et al. Diagnosis and Management of Prosthetic Joint Infection: Clinical Practice Guidelines by the Infectious Diseases Society of America : 2013 Clinical Infectious Diseases

2) Werner Zimmerli et al. Role of Rifampin for Treatment of Orthopedic Implant–Related Staphylococcal Infections : 1998 Journal of the American Medical Association

3)Adjunctive rifampicin for Staphylococcus aureus bacteraemia (ARREST): a multicentre, randomised, double-blind, placebo-controlled trial

4)J. Antimicrob. Chemother. 2018; 73:1–11.

 

 

Going home , Dying...

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Going home , Dying...「家に帰ろう、死ぬために。」
http://jamanetwork.com/…/jamainter…/article-abstract/2553284

 2016年のJAMA - less is more - で沖縄県立中部病院のレジデントの先生が投稿されていた記事に、大変感動したのを覚えている。そしてこういった記事が「JAMAに載る」という事に、自分がやっている(やりたい)プラクティスは、決して間違いではないんだな、と後押ししてもらえたようで、本当に嬉しかった。

 

 自分も、とあるおばあを「自宅で亡くなる」そのためだけに、家へ連れて帰った事がある。

 

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タケちゃん日記

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タケコおばさんはもう、喋れなくなってしまったけど、
 家族だからなんとなく、何が言いたいのか分かる。
 おばさんが言ってそうな事を、日記に書いておきましょうね。
 先生も病室に来た時、良かったら読んでおいてよ。…きっと喜ぶはず。」
 
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 当時医師三年目だった自分は、ただ日々をやりくりするので精一杯だった。沖縄の離島・宮古島にきて最初の1週間で次々と患者が入院し、しかもそれが、それまで自分は経験した事のない症例の嵐で、しないといけないto do listに✕をつける事だけで日付をまたぐようになり、てんやわんやしていた。
 1週間で新規入院が20人を超えた時、もう自分は、タケコさんの電子カルテ上のデータを拾う事はできても「タケコさんを看る」余裕は残されていなかった。
 
 そんな時、ご家族からの提案で「タケちゃん日記」は始まった。
 
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 タケコさんは、昨日までぴんしゃん歩いて元気に笑う、ちょっと小太り、糖尿病は緩やかに放置気味…という、どこにでもいる(?)島のおばあだった小さな庭で作っている小さめの島バナナが「村一番の味だ」という事が自慢なのだと、後で知った。
 
 その日、心原性脳塞栓症を発症し、あっというまに寝たきり発語不能になってしまわれたタケコさんに残された意思疎通の手段は、小さな頷きと目配せのみとなった。
 
 ご家族は、そんなタケコさんの想いを、家族の心情を、この日記に綴られるようになる。
 
 
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 色々なカンファレンスや勉強会に出たり、超有名といわれる病院の総合内科研修の見学など、今週はとても精力的に院外に飛び出してみた。結果気付いた事は、やっぱり圧倒的に「臨床」の経験をもっともっと積まないといけないなーと言う事だったように思う。
 
結局、人を看た経験の少ない人の話はうわすべってるように聴こえるし、
知識だけが膨れ上がっても、しょーもない。
 
肺炎を、尿路感染症を、どれだけ診て
それを患った患者やその家族を、どれだけ看たか。
そして、どう視てきたか。
 
その経験のない医師の言葉は「ヤブ医者のそれ」に近い寒さを感じる。
 
 
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 「タケちゃん日記」に、自分もその日思ったこと、感じたことを書き出したのは、なにがきっかけだったかはもう覚えていない。が、始まりは、もうすぐ転院が決まる入院後半のことだった。
 
いつかこの日記は、患者家族と僕との交換日記となり、多くの物語を一緒に綴るようになった。
 
 そこで手に入れた情報は、決して医学的なそれとは関係がないものが多く、また時に、煩わしいと感じる情報も含まれていた。あるいは、煩わしいと処理することで、自らの感情を抑制しコントロールしていたのかもしれない。
 
 
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 しかし結局のところ、自分の臨床の基本は、こういった人生を感じる事がスタートであり、ゴールとは、そういった人生(のその全て、あるいはそのうちの一章)を完結させることに強い興味があるようだ、という事に気付いたのは、もう少し後の、つい最近になってからだった。
 
 
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医療人類学に、「仮定法化的要素」という言葉がある。
 患者や家族はいわば「結末の知らない読者」のようなもので、語り手(患者や家族)は聞き手(医療従事者)との対話のなかで、さまざまな視点をとり可能な筋書きを(次々と)語ってゆく。
 それは、ある結末ではなく「別の結末の可能性を開かれたものにしようとしておく」事に希望を見出しているという事であり、さまざまな語りは、その努力の表現の一部に過ぎない(らしい。)
 
 
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そして、色々な人生の物語が、その日記に残されていった。
 
島バナナの事も、この日記が教えてくれた。
 
その多くが
僕にとって特別な物語であり
タケコさんにとっての日常だった。
 
 
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総合診療医としてのプロフェッショナルとは
ヤブ医者の定義とは
 
色々な事を考えたけれど、
結局自分の臨床の原点のいくつかは沖縄のおじいおばあに教えてもらった事なんだろうなと思う。
 
 
「平静の心」の時もあれば「『平静の心』がゆれる時」の事もある。
そういった、自分自身の物語の中においても、
これからもしばらくは、『人生を看る専門医』になりたいと思う。

【MKSAP17】Treatment a patient with tuberculosis meningitis

【Item 1 - 問題 - 】

 33歳の女性が2ヶ月持続する発熱・無気力・体重減少、及び頭痛を主訴にERに受診した。彼女は4年前インドからアメリカに移住しており、父は20年前結核を患い他界。その他の医学的情報に特記事項はなく、内服薬はない。

 

・身体所見

 BT 38.6℃  BP 114/70  HR 94  RR 18  BMI 20

 無気力は認めるが神経学的所見に異常所見はない。

 他、眼、心臓、肺を含め身体所見に特記異常は認めない。

 

・髄液所見

 WBC数 275/μL(98% リンパ球優位)

 糖 30mg/dL

 蛋白 250mg/dL

 初圧 15cmH2O

 

 その他一般的な血算・生化学検査は正常。髄液の抗酸菌染色は陰性であったがMycobacterium tuberculosisのPCRが陽性であった。

 頭部CTで脳底部髄膜造影効果を認めたが、midline-shiftや結節陰影、水頭症を示唆する所見は認めなかった

 

【問題】

4種類の抗結核薬を開始する事に加え、追加の治療として最も適切なものはなにか?

 A.アセタゾラミド(ダイアモックス

 B.デキサメタゾン

 C.フロセミド

 D.VP シャント

 

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