在宅と、救急と、

救命センターのICUで高度医療を行いながら、在宅往診で自宅看取りを行う専攻医の内省とつぶやき

どんな時も、救いたい命があって どうしても、救えない命がある ICUのベッドも、家の畳も 僕にとって、大切な空間のように思う。

誰が”それ”を決めるのか

今日のレジデントデイ・症例カンファレンスは

高齢認知症患者。家族は代理意思決定能力の薄弱な遠方高齢な妹と、同居だが知的障害のある息子しかいない。こんな本人・家庭環境の中で、意思決定は誰が決めるのか?」(それは、医者が決めていいことなのか?)

というテーマだった。

 

また難しい事に(かなりざっくばらんな情報だが)ゆるやかな老衰の経過ではなく、急な発熱・ショックバイタルで、1ヶ月前の入院の時と同じ状況・・・

「恐らく尿路感染症による敗血症。病院で治療したら治りそうだけど、本人は家がいいって言っている。しかし、認知症があり状況の把握は(恐らく)されていない。息子は知的障害がある。どうやらお金の事を心配されている。…搬送する?しない?」という内容だった。

 

不確実性こそあれ、不可逆な状態ではなく恐らく”可逆性のある状態”での、意思決定。

ましてや敗血症を疑っているのだから、時間的余裕もない。

 

担当した先生(=症例提示者)は、往診先の自宅に着くその瞬間まで「いやこれはすぐ搬送だろう…」と思いながら自宅に向かった、と言っていた。

 

しかし家に着き、患者さん本人の顔を見たその瞬間"不搬送"が頭をよぎり

そして、他職種を交えた話し合いの中で

「家にいておきましょう。」という結論に至ったのだそうだ。

 

 

そして彼はその数日後、

自宅の中で、先立たれた妻の下に旅立っていかれた。

 

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 自らが「救急医」として働いている時、目の前に現れた患者さんを治療するかしないか、この判断に「どこまで?」という選択肢の中で迷う事はあっても"押しつぶされそうな感情"がのしかかってくる事は、少ない。

 救急外来で、胸痛を主訴に来院された方の心電図ST-Tが上がっている、本人は家に帰りたいと言っている。「ほなじゃあ、帰宅で。」…なんていう選択肢は、ほぼほぼありえず、カテーテル室へそそくさと(90分以内に)運ばれていくだろう。

 

 明らかに老衰の経過なのに、なんとなく救急外来に放り込んでくるかかりつけ医へいらだちを感じる事はある。心肺停止患者の家族の困惑された表情に同情を覚える事もある。「やめないで」と泣き崩れる中学生の娘に、胸が傷まないはずはない。

 しかし、そういった意味で感情が浮足だつ事はあっても、状況が整理できない時にとる選択肢は「分かるまで、治療をする。」という事が多く、そしてそれは、ある意味で(僕たち医療者にとっては)圧倒的に楽だ。

 「どこまでするのだろう」という感情こそ芽生えても、それは「自分ではない誰かが(それは大概にして、家族が)決めていく事だ」という感覚が、少なくとも出会って間もないその瞬間にはある、と思う。なぜなら僕は、その人の事を何も知らないのだから。

 

 あるいは「分からなければ、治療をする」というコンセンサスが医療全体にはあって、それが支えになる事もある。(その支えというのも、治療を受けている患者本人ではなく、僕たち医療者側への支え、なのかもしれないけれど。)

 

 

 しかし「家庭医」として、救急外来に到着する前の患者の意思決定をする場合、例えば胸痛を訴えている、あるいは発熱をしているといった、この目の前のおじいを病院に搬送するかどうかという判断は、救急医のそれとは、違う。

 

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 代理意思決定の原則は、代理意思決定者がどうして欲しいかではなく「本人だったら、どういった選択をとっていたか。それを推し測ること。」だ。

つまり、本人の人となりをより知っている人が、代理意思決定者となりうる。

 

 本人の事前意思がはっきり残っている時、あるいは家族が代理意思決定者としてしっかり機能している時、そういう時に悩むことはない。(僕たちの出番は、ほとんどないと言ってもいい。)

 

 しかし、今回の症例のように、すでに本人は認知症、代理意思決定者も親族内にいない、などといった時、僕たち医療者の苦悩が始まる。

 それは、家庭医は医師でありながら「代理意思決定者になりうる」状況におとしこまれていくからではないか、と、今日のカンファレンスを通じて感じた。

 

 あくまで医師と患者だ。プロフェッショナリズムをもって(一定線を引き)医師患者関係を築いている。それでも、人生をなぞる作業をする(しがちな)家庭医は、そのおじいの「人となり」を知った人として、物語の中に登場してしまう。(特に僕は、そういう傾向が強いと思う。)

 

 それは「医師と患者」という関係でありながら、やっぱり人と人、であって、そのおじいの顔を見ると、外来に通院されていた時の顔・どうでもいい会話・家庭環境や言葉尻に含まれた想い・妻を家で看取った時の表情……など、そういった諸々の多くを思い出してしまうからで、そしてそうやった諸々を思い出している時、僕とそのおじいはやっぱり、医師と患者という「だけ」の関係ではなくなってしまっているのだろうなと思う。

 

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 医者だけど、代理意思決定者になりうるほどある程度その人の事を知っていて(この人だったら、こう言うだろうなという事がある程度推し量れて)、でも医者で、頭のどこかで「カルフォルニアの親戚」が急に現れて、搬送しなかった自分を訴えてくるんではなかろうか、とビクビクしたりもして、でも目の前のおじいは「このまま看取ってあげた方がいいのではないか」と感じ…

 

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他にも色々、そもそも「家族が決める」事の是非や、どこまでを可逆性の治療ととり、どこからが延命ととるか、など、、、、臨床倫理の分野は、答えがなく、いつも考えがずぶずぶしていく。

 

 

そんな事を考えていると、だいぶ夜も遅くなってきた。

結局今はまだ、なにもまとまらない。

けど、このずぶずぶしている状態のまま残しておくのも、それはそれでいいのだろうと思う。

 

またいつか、まとまればいい。